さざなみ(図書館報) 滋賀医科大学附属図書館

図書館、Library、Bibliothek

副学長 挾間章忠

これまで50年以上の間、いろんな文庫、図書館を利用して来たが、ふっとそれら過去の図書館との出会いをなつかしく思いだした。本との最初の出会いは、まだ幼かった頃、私が育った家の書庫だった。そこにはいろんな種類の本が並んでいた。父は本屋が持ってくる全集を片っ端から買っていた形跡がある。と言うのは、その種類があまりにも雑多で、統一が取れていなかったからだ。父がそれらの本を読んでいたかどうかは定かでない。私はやんちゃで、どちらかと言えば外で暴れ回るほうが好きな子供であったが、案外、この部屋に一人で篭り切って熱心に読書していた記憶もある。講談全集の荒唐無稽な話にうつつを抜かしていた一方で、内容が理解できるはずのない漱石全集を小学校の頃からすでに読んでいたのを覚えている。すべての漢字にルビが振られていたのがその理由の一つと考えられる。そのうちに鴎外全集も読むようになった。難しいところは抜かして読んでいたに違いないが、その後も繰り返し読んで、私の人格形成にかなりの影響を与えることになった。「三っ児の魂百まで」と言うが、どのような本を家に置いておくかということは子供の人格形成に重要な問題なのかも知れない。
また小学校の頃、市立図書館を恐る恐る尋ねたことがある。今まで見たこともないような沢山の本が書架に並んでいるのにびっくりし、胸を踊らせた。ただ、利用者は書庫内に入ることができず、まずカードを検索して係の人に希望の本を取り出してもらうという複雑なシステムであったため、自分自身で本の内容を予め知ることができず、どのような本を読もうという目的のはっきりしていなかった子供の私にはあまり利用価値はなく、また戦争もたけなわとなり、あまり行かなくなった。
戦争が終わり、アメリカ文化センターが設立された。ここにも図書館があり、あまり多くはなかったが、新刊書がずらりと書架に並び、出入り自由であり、簡単な手続きで本の借用ができるのを見て新鮮さを感じた。中学の後半から高校時代に、このセンターにはよく通った。当時は生きた英語を学ぶ手段は直接外人に接する他はなかった。センターで催される米語会話の授業には、美人の教師がいたおかげで熱心に参加した。そこで、アメリカ哲学にプラグマティズムなるものがあることを知り、古くさい利用されない日本の図書館と較べ、アメリカの図書館にその言葉を当て嵌めてみたりしたものだ。
私の大学時代は戦争直後で、日本全体がまだ貧しい時代だった。本は少なく、紙質の悪い岩波文庫がやっと毎月数冊復刊されていたに過ぎず、それを片っ端から買ってむさぼり読んだ。選択の余地はなかった。図書館にも本がなく、だだっ広い寒々とした館内にわずかの本が並んでいるに過ぎなかった。どのような経緯だったか、江戸時代に流行したコレラに興味を持ち、自分で古文書を読みたいと思い、大学図書館を尋ねた。ここには医学史の大家である富士川游博士が寄贈した文庫があり、一般蔵書から離れた場所にあまり整理もされず積み上げられていた。それら古文書の量の多さと質はすばらしいもので、思わぬところに宝の山が転がっているのをみて驚いた。
大学を卒業し、入局した京都大学の病理学教室にはすばらしい蔵書があった。昔、火事で建物は全壊したが、当時の教授は教室の再建の予算を見て0を一つ付け足した。ところがそっくりそのまま予算がついたという話を聞いたことがある。病理の有名な雑誌は初巻から揃っていた。ただ、戦中、戦後の新しい雑誌は欠けたままだった。単行本も、古いドイツ語の有名な医学書はほとんど揃っていた。これも新しい本はなく、書庫はほこりを被って誰も利用しようとしなかった。しかし、詳細に観察すると、ここにも宝の山があることがわかった。時を忘れて書庫で本に見入ることも屡々だった。漱石の「三四郎」のなかに、主人公が大学の図書館のどの本を取ってみても、かならず読まれた形跡を発見し、驚くシーンがある。同様のことを私も体験した。本にはアンダーラインが引かれ、書き込みがなされ、感激した箇所にはブラボーとさえ書かれており、先輩の息吹きに直接触れる思いをした。古い解剖記録に、初代教授の藤波鑑先生が弟子の記録にびっしりと朱で訂正されているのを見て感激した。また、生体染色法で網内系なるものを確立された、清野先生が書かれた大部のドイツ語の単行本を発見し、驚嘆した。ある本棚に巻物があるのを見つけ、拡げてみると学会に参加し、皆で楽しんだ様子が、筆と墨で見事な絵物語で書かれていた。このような経験から、ほこりにまみれた教室の書庫が過去の有名な偉い先生方をごく身近な存在にしてくれた。
その後、ドイツのミュンヘンにあるマックス・プランク精神医学研究所に留学したが、この研究所には小さいながら立派な図書館があった。そこの主任は、とても優雅な品のよい中年のレディーだった。私が図書館を尋ねていくと、かならず近寄ってきて、「何を探しているんですか?お手伝いしましょうか?」と尋ねてくれた。20年後に短期間この研究所に滞在し、図書館を尋ねたとき、「Dr.Hazama、お茶を入れましょうか?」と名前を憶えていたのには感激した。私が翻訳した、私の先生と同僚の2冊の著書の翻訳書もここに収められているはずだ。
残るはわが大学の図書館であるが、ここだけしか知らない若い諸君は、ここの設備、サ−ビスが他と較べて優れたものであることがわからないだろう。とても機能的にできている。いずれマルチメディア・センターと一体となり、近代的な情報センターとなるにちがいない。できるだけ多くの人が図書館を十分に活用し、各自の楽しい、なつかしい思い出をつくっていって欲しいものだ。

(はざまふみただ)


[さざなみ] [Library home page]
滋賀医科大学附属図書館
Last updated: 1997/8/8