さざなみ42(図書館報) 滋賀医科大学附属図書館

シリーズ本との出会い(7)
日本語の本と私の大学時代

生理学第二講座 助手 丁 維光

趣味は何かと聞かれたら,読書と答える人が少なくないだろう。私はどうも読書があまり好きではないタイプの人間である。いままで出会った本は,殆ど教科書とそれに関連する参考書のみであった。文学作品・小説等を買い求めるために書店に入ることはほとんどなかった。何故読書という趣味を持たないか考えると,私個人の性格によるかもしれないが,青年時代を過ごした環境にもある程度関係があるようだ。私が小学生2年生の頃,中国全土では文化大革命の暴風が吹き始め,社会全体が特別な時代に入っていった。いわゆる“旧いものを捨て新しい思想を確立しよう”といったスローガンが,すべての職場で声高に叫ばれていた。その頃,労働者は勿論,学校の先生まで政治運動に加わっていたので,私達はやむをえず長期休暇を命じられ家に帰り,大人たちの活発に論争する姿を不思議に思って見ていたことを今でも覚えている。その時の文芸界は少数の特権階級に牛耳られ,辛い人生や甘い恋愛などを語る本の出版や販売は全面的に禁止され,昔から残されていた古い本も殆ど焼かれてしまった。書店には政治運動に関連する本がずらりと並んでおり,それ以外の本としては,その当時注目を集めていた人物の個人評伝などがたまに売られていた。このような訳で,私や当時の友達は,かつて若者に愛された文学作品や小説などを味わうこともなく,スポーツや麻雀をやったりしながら年月を過ごしていた。長期間にわたった文化大革命はとうとう1976年に終止符を打ち,民衆はようやく夢から眼を覚まし,社会は再び元の軌道に乗り始めた。私は文化大革命終了の直前の1975年に高校を卒業したが,当時大学の受験制度はまだ修復されておらず,唯一の進路は,都市を離れ,農村で組織的な農業体験を受けることであった(この制度は1968年から1977年まで続いた)。当時の中国の田舎では,現在私達がいる大津市瀬田のイメージと完全に異なり,井戸水や薪を使っていた。私達はそのような生活を3年間過ごした。勿論,この期間は本と付き合うことは殆どなかったが,このときの経験が,人生の辛さを乗り越えるための勇気を与えてくれたことを,いまでもありがたいと思っている。
1977年大学受験制度は11年ぶりに再開し,私は運良く1978年中国医科大学に入学した。当時私達の学年の人数は700人にも昇り,互いの顔を覚えるのはとても無理であった。入学後しばらくして,私を含む30名の学生は,何らかの理由により日本語医学班の生徒として選出された。これは,将来の国際交流を図る目的で作り出された計画であると先生から説明を受けた。私達はなんとなく突然エリートクラスに入った気分で誇らしかった。その日から私達30名は,一緒に下宿生活を始めた。食事も一緒にとり,朝から夕方まで日本語を徹底的に叩き込まれた。担任の先生のお母さんは日本人なので,先生からの完璧な日本語の講義はいつも印象的であった。講義の資料は日本の小学校・中学校の国語の教科書から精選された優秀な作品ばかりであった。半年の特訓のお陰で私達は日本語を話せるようになり,これらの作品から日本の風習・文化の一端を知ることができた。この特訓の成果が,はたして使い物になるかどうかを検証するために,早速,物理・化学の講義が日本語で始まった。年寄りの先生方は,日本語のテキストを使いながら,昔習った日本語で流暢に講義をしてくれた。驚いたことに,私達は先生方の講義を完全に聞き取り理解することができた。その後卒業するまで,臨床医学も含めたすべての講義を,この様な調子で受けた。日常会話の講義は,その後も週4時間のペースで2年生の終わりまで続いたが,勉強すればするほど日本語の難しさを感じるようになった。動詞の変化は何故こんなに複雑なのか?敬語の使い方をどうすればマスターできるのか?中国文化の影響を大いに受けたはずなのに,何故こんなに難しい言語に変わったのか?この様な疑問に刺激されて,私の日本語に対する好奇心はますます強くなり,これを究明したいという熱意と欲望が私をつき動かした。語彙を増やすために,私ははじめて書店によく出入りするようになった。良い参考書があればすべて買ってきて,できるだけ日本人の文学作品から言葉の多彩な表現を学んでいった。
1987年,大学を卒業してから3年目の時,私は日本国費留学生として選ばれ,学生時代に憧れた日本留学の夢が叶えられた。滋賀医科大学で外科学教室,分子神経生物学センター,生理学教室,さらにデンマークのNovo Nordisk研究所と研究場所を変えながら,多忙な研究生活を送っている。日本に滞在して11年たったが,大学時代に習った日本語は私の人生に大きな勇気と支えを与えてくれた。今でもその時の日本語の本を忘れられない。

(ディン ウェイグワン)


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Last updated: 1998/2/17