さざなみ43(図書館報) 滋賀医科大学附属図書館

シリーズ「本との出会い」(8)

思い出の一冊

独語 助教授 森田 一平

 何となく記憶の中の光景が薄暗く湿っぽいので、あれは多分梅雨の一日だったと思います。それも確か月曜日の1時限目ホームルームの時間、教室に入って来た担任の先生は我々と朝のあいさつを交わすと、他に前置きも、本や著者の紹介もなく、やにわに手にした文庫本を読み始めました。今時の学校ならすぐに教室中がざわつくところでしょうが、当時の我々はまだ中学校に入って2月足らず、それも入学初日には昼食の弁当を食べるのに担任の許可が要ると思って箸もつけずに先生が来るのをずっと待っているほど純情(!?)だったし、学校がそもそも今と違って「荒れて」いなかった時代ですので、私語をする者、居眠りする者もなく、一同だまって先生の朗読に耳を傾けます。
  「貞之助が小学校へ行って帰って来るまでの時間は、いつもなら三十分も懸らない所なのであるが、その日は一時間以上も懸ったことであろう。」から始まるその小説は、朗読が進むにつれ、様相が深刻になり、ついには未曾有の大水害に主人公の義妹がまきこまれ、主人公がその救出に向かう場面へと話が進んでいきました。話に出て来る地名は、芦屋や本山、田中、野寄(のより)、横屋、青木(おおぎ)、甲南市場と自分達の住む土地やその近所のものばかり。しかし語られる光景は我々が日頃目にするものとはまるでちがう世界。すさまじい流れの中を何度か危機に直面しながらも、何とか義妹のいる洋裁学校に主人公がたどりつくまでクラス一同すっかり話の世界にひきこまれてしまいました。
  何を思ったか先生は題名も著者も結局我々に教えてくれなかったので、これほどまでに自分をひきつけた小説が谷崎潤一郎の作品『細雪』であることは、かなり後になるまで知りませんでした。その小説が自分達の住む町(正確には「川向こう」なので隣町ですが)で書かれたことを知ったのはさらに後年のことですが、たまたま先生が読んで聞かせてくれた本が、今では最も好きな本の一冊ですから、「縁」というのはどこにあるかわかりません。
  残念なことに、その本と知り合うきっかけをつくってくれた先生(ちなみに先生の担当は「国語」)は体を悪くされ、我々が卒業するとすぐ亡くなってしまいました。おそらく当時の先生は今の自分より若かったはず、病気で学校を休むことが多くなり、出て来ても顔色がすぐれないので、生徒達も心配してはいたのですが、まさか亡くなられるとは思っていませんでした。ならばもっといろいろ聞きたい、話したいことがあったのにと訃報に接して思ったことを今でも覚えています。
  自分はそこそこ本は読むけれど、系統だった読書をする質ではありません。だからなおのこと本との「出会い」を考えます。自分の意志ではなく読む本、例えば最近も研修や検定試験の課題として本をかなりの冊数読まなくてはならなかったのですが、否応なしに読まなければならなかった本の中に、すごくおもしろく気に入った本を何冊かみつけました。
  Heinrich BollやMonika Maronは研修や検定がなければおそらく読まなかっただろうし、Christa Wolfも留学中にドイツの友人が貸してくれなければ目を通すことはなかったでしょう。きっかけは何でも良い、しかしめぐって来た出会いの機会は逃さないことが肝心だと思います。
  最後に外国語教師の立場から一言。いかに日本が世界に誇る出版大国、翻訳大国であるとは言え、日本語しかできなければ読める本は限られてしまいます。専門書は日本語と英語で用が足りても、趣味の本はそうはいきません。自分の世界を広げるために、またいろいろな観点から世界をながめることができるようになるために、学生諸君は何語であっても良いから、英語以外の外国語もぜひ習得するようこころがけてほしいと思います。


(もりた いっぺい)

[さざなみ43インデックス] [Library home page]
滋賀医科大学附属図書館
Last updated: 1998/8/17