医学古書常設展示 滋賀医科大学附属図書館

河村家について(1)

  河村家は、近世の文化、文政時代に、初代河村純碩が町医として開業したのに始まっている。その家屋は、今も彦根城と指呼との間にあり、河村純一博士が医院として用いておられるが、その古いたたずまいには150年以上の歴史の重味が感ぜられる。
  明治初年の河村家文書「留文録」によれば、同家は士族に列せられてはいるが、開業当時は町医者であった。したがって藩に仕えるのみの藩医ではなかった。しかしながら藩主など重要人物が病気になると、藩医のほかに診療経験豊富な町医が起用されることも多かった。河村家はそのようにして彦根藩にとって重要な医家となり、天保期の文書によれば、御殿医の首席格に列せられている。また、彦根藩藩校である弘道館医学寮の支配人の地位をも与えられており、13石の知行も得ているのである。ほかに幕末彦根藩に登用された医師としては、長野主膳義言に関係した者が多く、その門人である石原純章、同じく主膳が、漂白の国学者として、江州路にはいったとき泊った伊吹山麓坂田郡市場村の医師三浦太仲などがいた。三浦はのちに儒学では主膳に師事しつつ、そのはからいで、彦根藩に仕え、北庵と号するようになる。
  さて、河村家と彦根藩の関係を具体的に示す重要な史料は「殿様日々御容体日記」である。これは12代藩主井伊直亮(直弼の兄)が1850年(嘉永3)4月に発病し、9月に亡くなるが、それによると、歩行困難、言語障害があり、脚気、心臓病、腎臓病などを併発したもののごとくで、歴史書には稗腎虚弱としるされている。これは当時の治療方法をうかがい知ることもできる一級の史料といってさしつかえない。直亮は、死亡の年には5月に参勤の予定であったが、桜田門の屋敷が類焼したので幕府から8月出府のゆるしを得ていた。ところが4月に発病して容体は日々に悪化し、9月中旬より重体に陥ったのである。いまでいうVIPの重病であるから、河村家のみでなく、複数の藩医・町医などが診察・投薬にあたり、京都からは名門百々家までもが招かれたという。しかしこの立合診察においても河村家が主導的な地位にあったことは、詳細な病状記録からもまちがいないのである。

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Last updated: 11/18/96